ほうちゃんの日記・感動

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静岡・慶喜と浮月楼の庭園

徳川最後の将軍「慶喜」が明治に入って20年を過ごしたという静岡駅近くの浮月楼(ふげつろう)の庭園は小雨が降っていてとてもよかった。浮月楼の社長から「慶喜公は、側室二人で子供21人にも恵まれてここで過ごした」と説明があった。ランチ懐石も上品だった。

以下は、朝日新聞デジタル「京橋玉次郎のおやじの昼めし」より。
英明な将軍といわれた徳川慶喜は、大政奉還後の1868年(明治元年)、32歳で静岡に蟄居(ちっきょ)した。住まいは元の代官屋敷で、近くに鉄道が通りうるさいというので西方へ転居するまで21年間ここに住んだ。慶喜転居の後払い下げられ料亭となって現在に至っている。料亭内には慶喜の資料コーナーもある。社長の久保田さんによれば伊藤博文井上馨西園寺公望なども頻繁に料亭を利用したそうだ。
 一方慶喜は西方へ移り住んだあと明治30年、61歳の時に東京へ移った。将軍就任、大政奉還、大阪脱出と大層中身の濃い前半の人生だったが、32歳から約30年の後半生を静岡で目立たぬよう暮らしたことになる。東京転居のころには、討幕運動をした“敵方”の主だった人々はみな世を去っていた。
 静岡隠棲の間、多くの女性との間に男10人女11人という子を持つ一方、鉄砲、自転車、写真と多彩な趣味に時を過ごした。しかし、旧幕臣や明治政府に不満を持つ武士などとは決して会わなかったという。自分がこうした武士たちに担がれたらどんな混乱を起こすか、自分の言動がどう政治的に利用されるか解り過ぎる程に解っていた。
 維新政府の足元が固まるまで、じっと30年間逼塞(ひっそく)していた彼は、ある意味では明治政府にとって最大の功労者の一人だったのかもしれない。大方の歴史上の人物は何事かをなして名を刻まれる。しかるに、何もしなかったことが功績として記憶に残る人物というのは珍しい。毀誉褒貶(きよほうへん)の激しさと共に、稀有な存在だ。